デジタルアセット管理におけるガスレス署名技術とその実装:メタトランザクションとERC標準の活用
はじめに
ブロックチェーン技術を用いたデジタルアセットの管理や流通は、その透明性や不変性から注目を集めています。しかし、多くのブロックチェーンネットワーク、特にEthereumのようなパブリックチェーンでは、トランザクションの実行に際してガス代が発生します。このガス代の負担は、デジタルアセットの利用頻度が高いアプリケーションや、ブロックチェーン技術に馴染みのないユーザーにとって、大きな参入障壁となり得ます。
ガスレス署名(Gasless Signature)技術は、この課題を解決するためのアプローチの一つです。ユーザー自身がトランザクションのガス代を支払うことなく、オンチェーンでの操作を実行可能にします。これは、デジタルアセットのエンドユーザー体験を大きく向上させ、より広範な普及を促進する鍵となります。本記事では、デジタルアセット管理の文脈におけるガスレス署名技術の基本的な仕組み、主な実装パターン、関連するERC標準、および実装上の技術的な考慮点について解説します。
ガスレス署名の基本概念
従来のブロックチェーン操作では、ユーザー(正確にはその公開鍵に対応する秘密鍵を持つEOA: Externally Owned Account)がトランザクションに署名し、ガス代を支払ってネットワークにブロードキャストします。ガスレス署名では、このトランザクションの送信とガス代の支払いを第三者(Relayer)が代行します。
ユーザーが行うのは、実行したい操作の「意図」に対する署名です。この署名はトランザクションそのものではなく、構造化されたメッセージデータに対して行われます。Relayerはこの署名付きメッセージを受け取り、自身のEOAを用いてオンチェーンのスマートコントラクトに対するトランザクションを生成し、ガス代を支払って実行します。スマートコントラクト側では、受け取ったトランザクションの中からユーザーの署名を取り出し、その署名が正当なユーザー(デジタルアセットの所有者など)によって行われたものであるかを検証します。検証に成功した場合のみ、署名に示された操作(デジタルアセットの転送、プロパティ変更など)を実行します。
この仕組みにより、ユーザーは秘密鍵を危険に晒すことなく(Relayerに秘密鍵を渡す必要はありません)、ガス代を気にせずオンチェーン操作を実行できます。ガス代はRelayerが負担しますが、Relayerは何らかの方法(例えば、ユーザーからのオフチェーンでの支払い、サービスプロバイダーによる負担など)でこのコストを回収します。
メタトランザクションの実装パターン
ガスレス署名を実現する代表的な技術がメタトランザクションです。メタトランザクションでは、ユーザーの署名を含むデータを引数として、Relayerがスマートコントラクト上の特定の関数(例: executeMetaTransaction
のようなProxy関数や、各操作関数自体がメタトランザクションに対応)を呼び出します。
主な実装パターンとしては、以下の二つが挙げられます。
-
Proxy Contract パターン: ユーザーは実行したい操作と引数、そしてそのハッシュに対する署名をRelayerに渡します。Relayerはこれらの情報とユーザーの署名を、あらかじめデプロイされているProxy/Forwarderスマートコントラクトの関数(例:
execute(address target, bytes memory data, bytes memory signature)
)に詰めてトランザクションとして送信します。Proxyコントラクトは受け取った署名を検証し、検証が成功した場合に指定されたtarget
コントラクトのdata
で指定される関数をユーザーのコンテキスト(元の署名者)で実行します。 このパターンは、既存のスマートコントラクトに大きな変更を加えることなく、メタトランザクション対応を可能にする利点があります。スマートコントラクトはProxyからの呼び出しを受け付けるだけでよく、実行コンテキスト(元の署名者が誰であるか)をProxyから取得する必要があります。 -
Native Meta-transaction パターン: デジタルアセットを管理する各スマートコントラクト自体が、ユーザーの署名と元の操作データ、その他のメタデータ(Nonceなど)を引数として受け取り、コントラクト内部で署名検証と操作実行を行います。 このパターンは、Proxyパターンに比べてシンプルに見えますが、メタトランザクションに対応するすべてのコントラクトに署名検証ロジックを実装する必要があるため、スマートコントラクトの開発・保守コストが増加する可能性があります。また、実行コンテキストの復元(誰がこの操作を要求したのか)もコントラクト内部で管理する必要があります。
どちらのパターンにおいても、セキュリティと正確性を確保するために、署名の検証、リプレイ攻撃の防止(Nonceの使用)、そして実行コンテキストの復元が技術的な鍵となります。
関連する主要ERC標準
メタトランザクションおよびガスレス署名の実現を助けるために、いくつかのERC標準が提案され、広く採用されています。
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EIP-712: Signed Typed Data Hash and Structure Ethereumトランザクションではなく、オフチェーンで署名される「構造化されたデータ」の標準的なハッシュ計算および署名形式を定義します。これにより、署名対象のデータ構造がウォレットに明確に表示されるため、ユーザーは自身が何を署名しているのかを正確に理解でき、フィッシング攻撃(悪意のあるデータへの署名を騙す手口)のリスクを低減できます。デジタルアセットの移転承認やプロパティ変更要求など、様々なオフチェーン操作の意図を署名する際に不可欠な標準です。EIP-712では、
domain separator
を用いて、同じ構造を持つデータでも異なるコンテキスト(異なるDApp、異なるネットワークなど)での署名が混同されないようにしています。EIP-712構造化データの定義例(SolidityまたはJSONで表現される型と値):
```solidity // EIP-712 ドメインセパレーターの構造 struct EIP712Domain { string name; string version; uint256 chainId; address verifyingContract; bytes32 salt; }
// デジタルアセット転送承認メッセージの構造 struct TransferApproval { address from; address to; uint256 tokenId; // あるいは amount (ERC-20の場合) uint256 nonce; uint256 deadline; }
`` 署名時には、
EIP712Domainとメッセージデータ(例:
TransferApproval`のインスタンス)を組み合わせた構造全体のハッシュが計算され、そのハッシュに対して署名が行われます。 -
ERC-2771: Context-aware Contract Meta-transaction Forwarder(Proxyコントラクト)と、それによって呼び出される「コンテキスト認識型」コントラクト間の標準的なインターフェースを定義します。ERC-2771に準拠したForwarderは、元の署名者のアドレスをトランザクションデータ(
msg.data
の末尾)に付加して、ターゲットコントラクトを呼び出します。ターゲットコントラクトは、Forwarderからの呼び出しであるかを確認し(_isTrustedForwarder
)、データ末尾から元の署名者アドレスを取り出して、_msgSender()
のような関数を通じて提供します。これにより、コントラクトのロジックは通常のトランザクションの場合と同様に_msgSender()
で操作の実行者を判断できます。ERC-2771準拠コントラクトの概念的な実装の一部:
```solidity import "@openzeppelin/contracts/metatx/ERC2771Context.sol";
contract MyAssetManager is ERC2771Context { constructor(address trustedForwarder) ERC2771Context(trustedForwarder) {}
function transferAsset(address to, uint256 tokenId) public { // _msgSender() が元の署名者アドレスを返す address owner = _msgSender(); require(owner == ownerOf(tokenId), "Not owner"); _transfer(owner, to, tokenId); } // _isTrustedForwarder をオーバーライドして、コンストラクタで指定したアドレスのみを信頼する // OpenZeppelinのERC2771Contextはこれを自動で行う // function _isTrustedForwarder(address forwarder) internal view override returns (bool) { // return forwarder == trustedForwarderAddress; // }
} ```
これらの標準を組み合わせることで、セキュアで相互運用性の高いガスレス署名システムを構築できます。例えば、ユーザーはEIP-712形式で操作意図に署名し、その署名と操作データをERC-2771準拠のForwarderに送信します。Forwarderは署名を検証し、ERC-2771の規約に従ってターゲットのデジタルアセットコントラクトを呼び出します。
Account Abstraction (ERC-4337) とガスレス署名
Ethereumにおいて、ガスレス署名を含むより柔軟なトランザクションモデルを実現する技術として、Account Abstraction (AA) があります。特にERC-4337は、プロトコルレベルの変更なしにAAを実現するアプローチとして注目されています。
ERC-4337では、ユーザーはEOAではなくスマートコントラクトウォレット(Entry Pointコントラクトと対話する)を使用します。ユーザーの操作意図はUserOperation
という構造体にまとめられ、これに署名(または他の認証方法)を行います。UserOperation
はBundlerと呼ばれる第三者によって収集され、Entry Pointコントラクトへの単一トランザクションとしてまとめられてオンチェーンに提出されます。ガス代の支払いはPaymasterと呼ばれるエンティティによって代行させることが可能です。Paymasterは特定のルールに基づいてガス代を支払い、そのコストをユーザーから回収する(またはプロモーションとして負担する)ことができます。
ERC-4337におけるガスレス署名は、Paymasterがユーザーのガス代を支払うケースに相当します。メタトランザクションが主にRelayerとターゲットコントラクト間のProxyコールとして実装されるのに対し、ERC-4337はウォレット(Account)の検証ロジック自体を抽象化し、トランザクションのバンドルとガス代支払いメカニズムを分離することで、より広範な認証・支払いモデルを可能にします。デジタルアセット管理においても、ERC-4337によるスマートコントラクトウォレットは、署名方法の多様化(マルチシグ、ソーシャルリカバリーなど)やガスレス操作をネイティブにサポートする基盤となり得ます。
実装上の技術的考慮点
ガスレス署名システムを実装する際には、いくつかの技術的な課題と考慮点があります。
- セキュリティ:
- リプレイ攻撃: 同じ署名が複数回使用されないように、Nonce管理が必須です。EIP-712ではNonceをメッセージ構造に含めることが一般的です。スマートコントラクト側でユーザーごとのNonceを記録し、使用済みのNonceでの実行を拒否する必要があります。
- 署名検証: スマートコントラクトでの署名検証ロジックは極めて重要です。
ecrecover
プリコンパイル契約の正確な使用、EIP-712ハッシュ計算の再現性確保など、バグがないように細心の注意を払う必要があります。OpenZeppelin Contractsのような信頼できるライブラリの利用が推奨されます。 - Relayerの信頼性: プロキシパターンやERC-2771を用いる場合、指定されたForwarder/Relayerのみを信頼するようにコントラクトを設計する必要があります。悪意のあるRelayerが不正な操作を試みることを防ぎます(ただし、Relayerはあくまでユーザーの署名した内容しか実行できない点に注意が必要です)。
- Relayerの運用:
- Relayerはガス代を負担するため、その運用にはコストがかかります。ガス代の高騰リスクも考慮する必要があります。
- Relayerはユーザーからのリクエストを捌くためのインフラ(ノード接続、キューイング、トランザクション送信ロジックなど)を構築・維持する必要があります。
- ビジネスモデルとして、Relayerがどのようにガス代コストを回収するか(サービス手数料、プラットフォームフィー、ユーザーからの支払いなど)を設計する必要があります。
- スマートコントラクトの対応:
- メタトランザクションに対応するためには、デジタルアセットを管理するコントラクトが署名検証ロジックを持つか、またはERC-2771のような標準に準拠したForwarderからの呼び出しを正しく処理できる必要があります。
msg.sender
の代わりに、署名検証から得られたアドレスや_msgSender()
などの関数を用いて操作の実行者を判断するようにコードを記述する必要があります。
- ユーザー体験:
- ウォレットがEIP-712署名に対応している必要があります。主要なウォレットは既にEIP-712をサポートしています。
- ユーザーは署名プロセスを理解する必要があります。トランザクションの承認とは異なるUI/UXになるため、分かりやすいインターフェース設計が求められます。
まとめと今後の展望
ガスレス署名技術は、デジタルアセット管理におけるユーザー体験を劇的に向上させる可能性を秘めています。特に、頻繁な操作が必要なアプリケーション(ゲーム内アイテムの操作、メタバース内でのインタラクションなど)や、一般ユーザー向けのサービスにおいて、ガス代の概念を意識させないシームレスな操作性は重要です。
メタトランザクションは既に実用化されている技術であり、EIP-712やERC-2771のような標準を活用することで、比較的容易に導入を進めることができます。OpenZeppelin Defender AutoTasksやGas Station Network (GSN) のようなフレームワークやサービスを利用することで、Relayerの運用負担を軽減することも可能です。
将来的には、ERC-4337に代表されるAccount Abstractionの普及により、ガスレス署名がよりネイティブな形でサポートされることが期待されます。これにより、個々のDAppやプロトコルが独自にRelayerインフラを構築する必要がなくなり、よりスケーラブルで相互運用性の高いガスレス体験が実現されるでしょう。
デジタルアセットのマスアダプションを目指す上で、ガスレス署名技術とその進化を理解し、適切に活用することは、開発者にとって重要な要素となります。技術的な詳細を把握し、セキュリティとユーザビリティのバランスを取りながら実装を進めることが求められます。